僭越ながら筆者は今、自分にとって初めてとなるCDの制作をしています。
これまで趣味で演奏しているところから大きく一歩飛び出すところでもあり、緊張もありますが、楽しみながら空き時間に作業を進めています。
小学生の時の発表会以来の作曲活動は楽しいもので(もちろんレベルは違いますが)、これまで自分が蓄積してきた楽しかったこと辛かったことを音楽で表現すべく頑張っているところです。
ただ、1枚のCDを作るのはそう楽なことではありません。
曲さえ作れば自動的にCDができるわけではないからです。
発売に向けた様々な手順、関わってくれている多くの人の姿を見て、「何かを形にして残す」にあたって不可欠なものに気づきました。
音楽をやっている人にはそれぞれの考えがあります。
プロになりたいという人から、趣味の範囲でライブ活動をやりたいという人、そしてステージに上がる機会はいらなくて、ただいろんな人と一緒に音を出すほうが楽しみ、という人もいます。
筆者の周辺には、趣味の範囲でライブ活動をやりたいというスタンスの人が圧倒的に多いように感じます。
ただ、もっと進んで、レコーディングをして音源を残したり配信したりという領域で積極的な活動をしている社会人もいます。
できれば自分の音源を配信したりCDを作ったりしてみたいと考える人は多いのですが、そこには壁がいくつもあります。
まず、お金がかかります。スタジオが必要ですし、もし自宅で収録できる楽器であっても、次のステップがあります。
それは、音のミックスをしてくれる人が必要になるということです。それぞれの音のバランスを調整し、必要なところには加工を加えるエンジニアです。
そして自前のバンドですべてのパートを埋められるならばともかく、そうでない場合、参加してくれる奏者にギャランティを支払わなければなりません。
かつ、いま筆者が最も頼りにしているのは「アレンジャー」の存在です。
筆者の作ったメロディやコードを補い、他の楽器の音を創造してバンドサウンドとして仕立ててくれる人です。
筆者がもっと機材の扱いに長けていれば話は違ったのかもしれませんが、それでも限界はあります。
曲というのは、筆者はサックスを吹いていますが、では、
ドラムはどんなリズムを刻むのか?バスドラム、タム、スネア、ハイハット、シンバルをそれぞれどう鳴らすのか?
ギターはどんなリズムを刻むのか?
キーボードはどういう立ち回りをするのか?
ベースはどのようなメロディ(ベースライン)で曲を支えるのか?
それ以外にボンゴなどのパーカッションがあったほうがいいのか?
ピアノの音がいいのかオルガンがいいのか?
筆者が明確にアレンジャーに伝えられるのは、メロディとコード進行とパート分けくらいのものです。そこまでなら譜面を作り、音源にすることができます。
もちろん、全部の楽器の動きをソフト上で再現はできます。
しかし素人が無料ソフトを使って一音ずつ打ち込むのはとてつもない作業になってしまう上、それが本当に的確かどうかはわかりません。
筆者がいまお願いしているアレンジャーは、それぞれを「どうしたいか」尋ねてくれるのです。パート一つ一つに想像を馳せることは、自分の頭の中にある曲の粒度を高める作業です。
そうやって自分のコンセプトをより明確にしていく時間をもらっています。
しかし、楽な話ではありません。
というのは、「餅は餅屋」だからです。
ドラムを叩いたことのない筆者は、あれだけ多くのパーツをドラマーが日常的にどう使い分けているのか知っているわけではありません。せいぜい動きを詳細に認識できるのは3~4つくらいです。
認識できる、というのは「再現性がある」ということです。「これをこう叩いてほしい」と言葉で伝えてお願いできるレベルのことです。しかしせいぜい3~4つです。
ベースもそうです。筆者はベーシストをやったことはありませんから、曲にあった「カッコいい」フレーズは、本家のほうが得意に決まっています。
特に筆者の場合、音楽理論をきちんと学んだこともありませんので、ますます「餅は餅屋」だと感じています。
もちろん、すべて自分で指定してとりあえず楽譜通りに弾いてほしい、とすることも可能です。
しかし、全ての楽器を知り尽くしている訳ではない以上、それは自己満足なのではないかと感じます。「聞いてもらえる音楽」にするためには、自分よりよく知っている人の知識を借りるのは当然のことでしょう。
筆者がこう感じるようになったのには、ひとつの経緯があります。
放送局に勤務していたときのことです。
筆者には度々、密着取材や長期継続取材の機会がありました。
今どこまでそういった風習が残っているかはわかりませんが、そういう時、取材の趣旨を伝えて、カメラマンを管理する部署のデスクに「こういう事情だからこの企画に関してはひとりのカメラマンを固定してほしい」とお願いしていました。
報道の基本クルーは記者(ディレクター)とカメラマンと音声さんの3人です。
まず今回の「追っかけ」取材の内容はどういうものか。どういうスタンスで臨みたいのか。
背景や専門知識など全て共有できる相手でなければ、カメラマンが変わるごとにいちいち説明しなければなりません。
「いつもと似た撮影」といっても「いつも」を知らないカメラマンを突然連れてきても、一貫性がなくなってしまうので、固定カメラマンという手段を取っていました。
すると、不思議なことが起きるのです。
ひとつのストーリーをどう解釈するか、基本コンセプトは同じでも、表現方法がクルーひとりひとりに異なるのです。
どれだけ筆者なりの映像を期待しても、その期待には当たり前に応えた上で、カメラマンなりの別解釈カットが溢れているのです。
基本的に、狭いファインダーからカメラマンが何を見ているのか、ヘッドホンから音声さんが何を聞いているのか、筆者にはその場で知る由はありません。
しかし、取材から戻って素材テープを見るたびに毎回唸ったものです。良い意味で裏切られるのです。「やられた!」と感じるのです。
たしかにこの出来事にはそういう側面もある。
その見え方を原稿に織り込んでいこう。
かつ、最終的には編集マンの視点が入ります。
そうやって物語は、当初に筆者が持っていただけの狭い視野を超えて、より広い全体像を見せてくれます。
同時に、「そうそう、こういう表現をしたかったんだ!」と、言葉で説明しきれなかった自分の内面に気付かされるのです。
これは、一人でいくら悩んでも実現できることではありません。
さて、話をCD制作に戻しましょう。
アレンジャーからの多くの質問は、筆者にとってひとつひとつが視野を広げるきっかけになっています。それは筆者にとっては「外からの風」です。
音楽をやっていると、憧れのプレイヤーがいるということは少なくありません。
この人の音楽が好きだ、この人のようになりたい。筆者もそうやって楽器を続けてきましたが、自分が創る側となると話は別です。
「自分の」作品を残す限り、そこには「自分」が必要なのです。
「あの人っぽいもの」であれば、そう苦しまずに完成するかもしれません。
ただそれが外から見て新鮮なものか、自分自身が納得するものかどうかは別問題です。
あなたが「自分の仕事を後世に残したい」と考えた時。
これまでになかったものを作ってみようと思ったとき、自分が作りたいものとは何かを一人で考え続けても、自分の深いところには到達しません。しかし外からの風に晒していくことで「粒度」が高まってきます。
新しいものをゼロから作ろうと考えた時、これは不可欠のプロセスです。
輪郭のぼやけたことをいくら言っても、形には残りません。