政府は2023年5月、「三位一体の労働市場改革の指針」をとりまとめました。
この改革は、これまでの雇用形態やキャリア観、賃金、労働移動(転職)の転換、つまり雇用システムの変革を目指すものです。
なかには「雇用調整助成金」「失業給付制度」「退職所得課税制度」の見直しも含まれており、人事・雇用担当者にとって重要な内容が盛り込まれています。
この指針の骨子、背景と狙い、方向性について、ポイントを解説します。
まず、「三位一体の労働市場改革の指針」(以降、「指針」)の柱と目標を押さえておきましょう。
三位一体の指針の柱は以下の3つです。*1:p.3
この改革で何を目指そうとしているのか、その目標も以下の3点、示されています。*1:p.2
では、なぜこのような改革が必要なのでしょうか。
その背景についてみていきましょう。*1:p.1
「指針」の冒頭には以下のように書かれています。
働き方は大きく変化している。「キャリアは会社から与えられるもの」から「一人ひとりが自らのキャリアを選択する」時代となってきた。
そうした働き方の変化に合わせ、従来のキャリア観を刷新する必要があります。
企業は職務ごとに必要なスキルを明らかにし、労働者が自分の意思でリ・スキリングを行えるようにする。そして、労働者自身が職務を選択できる制度に移行していくことが重要だと「指針」では述べられています。
GX(グリーントランスフォーメーション:脱炭素に向けた取り組み)やDX(デジタルトランスフォーメーション:デジタル化による社会変革)などの新たな潮流によって、必要とされるスキルや労働需要が大きく変化しています。
「人生100年時代」に入り就労期間が長期化する一方で、現在はさまざまな産業の勃興・衰退のサイクルが短くなっています。
こうした状況では、生涯を通じて新たなスキルの獲得に務める必要がありますが、実際には、労働者の多くが受け身の姿勢で現在の状況に安住しがちであるとの指摘もあります。
しかし、それは労働者個人の問題というわけではなく、年功賃金制などの雇用システムの問題であると、「指針」では述べられています。
職務(ジョブ)や職務に要求されるスキルが曖昧なため、個人がどうがんばったら報われるか分かりにくいという状況があります。
また、やる気があっても学ぶ機会へのアクセスが十分確保されていません。
そのため、従業員エンゲージメントが低い一方で、転職しにくく、転職したとしても給料アップにつながりにくいのが現状です。
ここで、「指針」を離れて、転職に関する課題をみていきましょう。
転職希望者は年々増え、2018年に834万人だったのが、2022年には968万人に上っています。*2
その一方で、実際に転職した人は303万人に留まります(図1)。*3
出所)総務省「労働力調査(詳細集計)2022年(令和4年)平均結果の概要」p.12
https://www.stat.go.jp/data/roudou/sokuhou/nen/dt/pdf/ndtindex.pdf
「指針」では、こうした状況を変革する必要があると述べられています。
労働者個人が、雇用形態、年齢、性別、障がいの有無を問わず、働き方を選択する。そして、自らの意思で、企業内の昇進・昇給を実現するためにも、また企業外への転職によって処遇改善を実現するためにも、主体的に学び、それが報われる社会を作っていく必要があるという主張です。*1:p.1
企業の責任は重大です。
これまで企業は人への十分な投資を行ってこなかった。その間に諸外国との賃金格差が拡大し、グローバル市場における人材獲得の競争力を失ってしまっていると、「指針」は指摘しています。
たとえば、1991年から2021年の30年間における賃金の上昇は、アメリカが1.52倍、イギリスが1.51倍、フランスとドイツは1.34倍に上るのに対して、日本はわずか1.05倍と低迷しています。
ここで、また「指針」を離れ、OECD(経済協力開発機構)に加盟する38か国の平均賃金をみてみましょう(図2)。*4
出所)OECD「平均賃金 (Average wage)」
https://www.oecd.org/tokyo/statistics/average-wages-japanese-version.htm
図2をみると、日本の平均賃金は加盟国平均を下回り、低い方から14番目であることがわかります。
こうした状況をふまえ、「指針」では「人的資本」こそが企業価値向上の鍵となるという認識をもち、企業は人への投資を強化することが急務であると述べられています。*1:p.1
また、構造的賃上げを実現するためには、国の雇用とGDPの7割を占める地方、中小・小規模企業の対応もポイントで、そのための対策も急がれます。*1:p.2
「三位一体の労働市場改革」は、以上のような状況を背景とします。
究極の目的は、雇用システムを、客観性、透明性、公正性が確保できるものへと転換し、構造的に賃金が上昇する仕組みを作ること。
そのために、リ・スキリングによる能力向上支援、個々の企業の実態に応じた職務給(ジョブ型人事)の導入、成長分野への労働移動の円滑化を3本の柱とする改革が必要なのです。
では、これからそれぞれの柱についてその概要をみていきましょう。
社員が職務に必要なスキルを習得することができれば、企業は業績を上げることができ、それを賃上げの原資に回すことができます。
「指針」にはリ・スキリングによる能力向上支援として以下のようなポイントが示されています。
現在、学び直し支援策は、企業が申請するものが75%(771 億円)、個人向けが25%(237 億円)です。
今後は個人向けのものを増やし、5年以内を目途に半数以上になることを目指します。*1:p.3
讀賣新聞の報道によると、これに関連する新制度では、専門スキルが身につけられる民間の講座を最大で1年間受けることができ、1人あたり平均24万円を助成するということです。
対象者は転職を希望する正社員と契約社員、派遣社員、パート・アルバイトで、経営者や個人事業主などは含まれません。今後3年間で計約33万人の転職を後押しすることを目指します。*5
日本企業の人への投資(OJT を除く)は、他の先進国に比べて低水準にあります。
たとえば、2010年から2014年の対GDP比は、米国2.08%、フランス1.78%ですが、日本は0.1%です。*1:p.4
諸外国の状況をみると、人への投資が充実している企業では、離職率の上昇はみられず、むしろ自分を育てる機会を得られるとして、優秀な人材を惹きつけることが可能となっています。
企業は社員個人へのリ・スキリング支援強化を図る必要があるのです。
現在の雇用調整助成金は、雇用維持を行うために、教育訓練、出向、休業のいずれかの形態
で雇用調整を行うことによる費用を助成する制度です。*1:p.5
在職者によるリ・スキリングを強化するために、休業よりも教育訓練による雇用調整を選択しやすくするよう、助成率などの見直しを行います。たとえば雇用調整が30日を超える場合には、教育訓練を支給の条件とし、訓練を受けさせずに雇用調整を行う場合には助成率を引き下げることを検討します。
次は、職務を明確にして賃金に反映させるジョブ型人事の導入についてです。
「指針」では、職務給人材の配置・評価方法、リ・スキリングの方法、賃金制度などについて、中小・小規模企業の事例も含めて、2023年中に事例集を作成し、個々の企業の実態に応じた導入の参考となるよう、多様なモデルを示すとしています。*1:p.6
ちなみに、いくつかの導入事例については「指針」の中で紹介しています。*1:pp.6-8
次に、成長分野への労働移動の円滑化についても、現行の制度の見直しという大きな変革が含まれています。
現在の失業給付制度では、自己都合で離職する場合は会社都合で離職する場合とは要件が異なり、求職申込後2か月から3か月は失業給付を受給できないことになっています。*1:p.8
しかし、「指針」では、自らの選択による労働移動の円滑化という観点からこの失業給付制度を見直し、たとえば1年以内にリ・スキリングに取り組んでいた場合などは会社都合の場合と同じ扱いとするなど、自己都合の場合の要件を緩和する方向で具体的設計を行うとしています。
現行の税制では、退職所得課税は、勤続20年を境に、勤続1年あたりの控除額が40万円から70万円に増額されることになっていますが、これが自らの選択による労働移動の円滑化を阻害しているとの指摘 があります。*1:p.9
そこで、「指針」では、制度変更に伴う影響に留意しつつ、この税制の見直しを行うとしています。
成長分野への円滑な労働移動のため、求職・求人に関して官民が有する基礎的情報を集約、共有して、キャリアコンサルタントが、情報に基づき、個人のキャリアアップや転職の相談に応じられる体制を整備します。*1:p.9
これまで「指針」のポイントについてみてきましたが、それ以外にも大切なことがあります。こうした改革を進める際の格差の是正です。*1:pp.10-11
「指針」では最低賃金の引上げを図るとともに、中小・小規模企業の賃上げ実現のために、価格転嫁(原材料・光熱費・人件費などのコスト上昇を製品やサービス価格に上乗せすること)の対策を強化すると謳っています。
「指針」はまだ公表されたばかりです。
これからさまざまな施策が具体化し実施されるとともに、モデルとなる取り組み事例が蓄積されていくでしょう。
この労働市場改革は、雇用・人事システムの変革を中心に据え、賃金上昇を目指すものです。
経営陣、雇用・人事担当者だけでなく、ビジネスパーソンは広く、今後の動向に注視する必要があります。