「日本的経営」が世界から注目されていた時代がありました。その1つが社員を大切にし、長期雇用するスタイルでした。それが競争力の源泉であると捉えられていたのです。*1:p.1
しかし、時代の変化とともに、経営環境も人々の価値観も変わる中で、かつてよしとされていた日本企業の人材施策は行きづまりをみせるようになりました。
こうした状況下、経済産業省は2022年5月、「人的資本経営の実現に向けた検討会」の報告書「人材版伊藤レポート 2.0」を公表しました。このレポートで最も重要視されているのが「経営戦略と人材戦略との連動」であり、経営トップ5Cの連携です。*1:p.11, p.7
同検討会の座長を務めた一橋大学CFO教育研究センター長・伊藤邦雄氏は、同レポートの冒頭でこう問いかけます。
「日本企業は総じて社員を本当に大事にしてきただろうか」*1:p.1
そして、同レポートが提唱する改革が成功すれば、画一的な雇用システムから個人が解放され、キャリアの多様化が実現すると推測しています。また、人生設計の複線化が当たり前で、多様な人材がそれぞれの持ち場で活躍でき、失敗してもまたやり直せる社会へと日本社会が転換していくことが期待できるというのです。*1:p.11
その取り組みとはどのようなものでしょうか。
「人材版伊藤レポート 2.0」が提唱する人事戦略をみる前に、日本の人事施策の現状をみていきます。
2022年3月、企業が抱える人事課題や施策方針を明らかにするために、全国の企業5,200社、延べ5,441人を対象に行われた調査があります。*2
その結果をみてみましょう。
以下の図1は、同調査での「『戦略人事』は重要である」という項目に当てはまるかどうかという質問に対する回答結果を表しています。*3
なお、戦略人事とは、「人事部門がこれまでのような管理的業務を中心とした対応から、経営戦略の実現を担う戦略部門へと転換すべきである、という考え方」です。*4
出典:日本の人事部「人事白書調査レポート2022 人事制度 約9割の企業が戦略人事の重要性を認識しているが、実際に機能している割合は約3割に留まる」
https://jinjibu.jp/article/detl/hakusho/2604/
「当てはまる(戦略人事は重要である)」と「どちらかといえば当てはまる」を合わせると91.0%に上ります。
このことから、戦略人事の重要性については、ほとんどの企業が認識していることがわかります。
ところが、「自社の人事部門が『戦略人事』として機能している」という項目に対しては、否定的な回答が多くを占めました(図2)。*3
出典:日本の人事部「人事白書調査レポート2022 人事制度 約9割の企業が戦略人事の重要性を認識しているが、実際に機能している割合は約3割に留まる」
https://jinjibu.jp/article/detl/hakusho/2604/
「当てはまる(人事部門が戦略人事として機能している)」と「どちらかといえば当てはまる」を合わせた割合は31.3%にすぎなかったのです。
図1と図2から、戦略人事の重要性が浸透している一方で、人事部門が戦略人事としてなかなか機能していない状況がみえてきます。
ここからは、「人材版伊藤レポート 2.0」が提唱する人事戦略についてみていきましょう。
経済産業省は2020年9月に、「人材版伊藤レポート 2.0」の前身にあたる「人材版伊藤レポート」を公表しました。
そのレポートは、「人的資本経営」の視点を盛り込み、人材戦略に求められる「3つの視点(Perspectives)と5つの共通要素(Common Factors)」という枠組みを示しました(図3)。*1:p.2
「人的資本経営」とは、人材を「資本」と捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営です。*5
https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinteki_shihon/pdf/report2.0.pdf
「人材版伊藤レポート 2.0」も図3の枠組みをふまえていますが、同レポートでは、このうち、第1の視点である「経営戦略との連携」が最重要であると指摘しています。*1:p.11
そして、経営陣は、企業理念や存在意義(パーパス)、経営戦略を明確にした上で、経営戦
略と連動した人材戦略を策定・実行すべきであると提唱しています。*1:p.7
では、日本の企業の人事部門は、経営戦略との連携がとれているのでしょうか。
ここで、人事担当者の取り組み状況をみてみましょう。*6
以下の図4は、人事担当者個人に「戦略人事の考え方や視点を持って取り組んでいるかどうか」をきいた結果です。
出典:日本の人事部「人事白書調査レポート2022 戦略人事 戦略人事に「取り組んでいる」人事パーソンは約4割」
https://jinjibu.jp/article/detl/hakusho/2903/
「取り組んでいる」という回答が38.5%、「取り組みたいができていない」が51.6%、「取り組んでいない」が6.7%でした。
では、取り組んでいない理由はどのようなものでしょうか(図5)。
出典:日本の人事部「人事白書調査レポート2022 戦略人事 戦略人事に「取り組んでいる」人事パーソンは約4割」
https://jinjibu.jp/article/detl/hakusho/2903/
最も多かった理由は「何をすればいいのかがわからない」、次いで「経営が戦略人事を求めていない」が続きます。
こうした調査結果から、「人材版伊藤レポート 2.0」が最重要であるとする「経営戦略との連携」がまだまだ不十分であることが窺えます。
では、 経営戦略と人材戦略の連動はどのようにして実現していったらいいのでしょうか。
そのための第一歩は、 経営戦略と人材戦略の連動に関する責任を明確にすることであり、その責任を担うのがCHRO(Chief Human Resource Officer:最高人事責任者)です。*1:p.23
CHROの設置にあたっては、まずCHRO自身が、従来の人事部長や人事担当役員が果たしてきた役割・責任との違いを明確に言語化し定義して、経営陣・取締役会と合意する必要があります。*1:p.24
では、CHROと従来の人事部長、人事担当役員との違いはどこにあるのでしょうか。
日本の人事部長は一般に、人事部門の責任者として、経営陣の決定に沿って人事戦略を立案し実行する役割です。*7
一方、CHROは、自身が経営陣の一員であり、人材戦略の策定と実行を担う責任者として人事戦略を自ら起案し、CEO(最高経営責任者)をはじめとする経営陣や取締役と定期的に議論する役割を担います。*1:p.23
その定義は各企業が独自に定めるべきですが、一般的にはCHROの役割や責任として、以下のようなことが想定されています。
このような職務を十分に果たすためには、人事以外の経験やファイナンス、競合状況、製品に対する理解も欠かせないため、事業側での経験が必要です。*1:p.24
また、そのためには、事業・人事の両部門間で人材交流を活発化させるのはもちろん、従来の慣行や意識を変革することが求められます。*1:p.25
上述のように、経営戦略と連動した人材戦略を策定・実行する上で、CHROの果たす役割は重要ですが、人材戦略の策定、実行に関わる最高責任者はもちろんCEOであって、経営者がCHRO任せにすべきでないことはいうまでもありません。*1:p.23
同レポートでは、CHROを含めた経営トップ5C―CEO、CSO(最高戦略責任者)、CHRO、CFO(最高財務責任者)、CDO(最高デジタル責任者)の連携の重要性が指摘されています。
次に、経営戦略との連動に関する取り組み事例をみていきましょう。*8
最初の事例はKDDI株式会社です。
同社は、本社の営業部門で約20年の業務経験を持つ人材を人事部門トップに登用しています。そして、人事部門が経営層・事業部門と定期的にミーティングをもち、経営層や各事業部門と人事部門が密接に連携することで信頼関係を構築しています。*8:pp.34-35
CHROの事例ではありませんが、参考になる取り組みではないでしょうか。
次の事例は、多様な事業を展開しているソニーグループ株式会社です。
同社は、それぞれの事業特性や課題に応じて迅速に人事運営を行えるように、グループ各社の人事上の責任をそれぞれのCHROに委任しています(図6)。*8:p.46
出典:経済産業省「人的資本経営の実現に向けた検討会 報告書 ~人材版伊藤レポート2.0~ 実践事例集事例集」(2022年5月)p.48
https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinteki_shihon/pdf/report2.0_cases.pdf
CHROはそれだけの責任を担う職務なのです。ただし、他の経営陣との連携が必要であることはいうまでもありません。
事業間の特性の違いが大きいこともあり、各社のCHROは、グループ会社執行役専務、人事総務担当と頻繁に擦り合わせをしながら人事施策を推進しています。*8:p.48
「人材版伊藤レポート 2.0」が公表されたのはつい最近のことです。人的資本経営の中核をなす「経営戦略と人材戦略との連動」が日本の企業に浸透するまでにはまだ時間がかかるかもしれません。
ただ、企業の経営陣も人事担当者も、こうした視点をもつことは重要ではないでしょうか。
同レポートの公表から3か月後の2022年8月には、「人的資本経営コンソーシアム」が設立され、経済産業省と金融庁がオブザーバーとして参加しています。*5
今後、同コンソーシアムの活動を通じて、人的資本経営の実践に関する先進事例の共有、企業間協力に向けた議論、効果的な情報開示の検討が進められる予定です。
人事担当者は、その動向を注視していく必要があるでしょう。