「コーチング」は通常の「技術の伝承」とは異なり、相手の「潜在能力を引き出す」「気付きを与える」という役割を持ちます。単に「仕事を教える」のではないという点が大きな特徴です。
一方で、自らコーチングをやってみよう、と考える人はそう多くはないことでしょう。
根本に「自分よりキャリアが長かったり優秀だったりする相手が来た場合、どう接すれば良いのだろう」と考えてしまうのが大きな理由です。
しかし、「コーチ」=「誰よりも物知りで経験のある人」とは限りません。
筆者の身に最近起きたことと、他の事例を交えてこの点を理解する一助となれば幸いです。
筆者は会社員時代に趣味としてサックス演奏を始めてから、10年ほどが経ちます。
あくまで趣味の範囲でスクールに通った程度だったのですが、筆者の演奏をよく聞いている知人から、最近「サックス講師をやってもらえませんか?」という依頼がきました。
彼は音楽教室を経営していて、事業拡大のために学科を増やしたい、そこでサックス講師が欲しいという事情です。
彼自身もドラム講師をしています。しかし、誰でもいいというわけではないのは承知しています。
筆者は小さい頃にピアノを習っていたため、音楽に関してはある程度の理解を持ってサックスを始めましたが、楽器が違えば事情は全く異なります。
さて、音楽講師というと、みなさんはどのようなイメージを持っているでしょうか?
音大出身であったり、そうでなくても10代でその楽器を手にして大きなフェスに参加するなどの実績があったり。そのような人を思い浮かべることでしょう。
しかし筆者にはそのようなバックグラウンドは一切ありません。30歳を過ぎてから趣味としてサックスを始めただけのことです。
かつ、いわゆる音楽理論に詳しいわけでもありません(ここは勉強でカバーできますが)。
ただ、教えることは自分の勉強になる、そのことだけはわかっているので、本当に適格者と認められているのなら挑戦してみたいのも事実です。
ただ、当然ながら戸惑いもあります。お金をいただく。その責任は重いからです。
いろいろなことを考えました。そしてある時、その知人に質問をしました。
「初心者の方が相手なら多くのことを教えられますが、自分より上手な人や、自分が普段やっているジャンルと異なる生徒さんが来たら対応できないかもしれません。その時はどうしましょう?」
彼の答えは、
「僕にもそういう生徒さんいますけど、そういう時はコーチングにまわるんです」。
というものでした。
筆者はそこで膝を打ちました。この依頼を受けても良い、自分も講師になれるかもしれない、そう思えるようになったのです。
コーチングとは、「仕事を教える」のではなく、対話などによって相手がみずから課題を発見し答えを見つけたり、本人が気づいていなかった自分の潜在能力を引き出すものです。業務とは直接的な関係がないのが特徴でもあります。
あくまで相手を主体とすることに重きが置かれます。「余計な口出しはしない」とも言えるでしょう。
具体的な業務の話に触れず、相手の能力を引き出す。
難しいことのように感じてしまうかもしれませんが、考え方はシンプルなものかもしれないと筆者は思うようになりました。
さて、筆者が彼の「コーチングに回れば良い」という言葉に納得し、自分もやってみようと思った理由は、このような言葉があったからです。
「自分より上手い人の場合は、とりあえず客観的な立場で音を聞いて、『もうちょっとこうしたほうがカッコよくなりますよ』と伝えるんです。その辺は清水さん(筆者)なら大丈夫だと思ってお声かけしたんです。客観性があれば良いんです」。
確かに、これなら筆者にもできそうだと思いました。
まさに彼に「コーチング」された瞬間でもあるでしょう。
確かに筆者はその頃同時に、偶然筆者の演奏を聞いたあるプロミュージシャンから声をかけられ、プロと共に各種イベントのお手伝いをするようになっていました。
手前味噌ながら、演奏のスキルは評価されたようです。
また、自分なりの短いサックス経歴の中で、
「基礎を学び、そこからようやく自分なりのスタイルに変えられるようになってきた」
という時期でもありました。
また、プロのバンドマンとの付き合いができたことで、バンドサウンドについての知識や自分なりの聞き方を得ていました。
そのうちに、国際的な超一流ミュージシャンのバンドであっても、有名だからといって全肯定することもなくなっていたのです。
どれだけ上手な人でも、ひとりで練習しているときには、客観的に自分の音を聞いたり、物事を考えたりするのは難しいものです。そこに他人として何らかの意見を添える、これも「指導」なのだと気づきました。むしろ、他人だからできることです。
楽器や演奏の基礎、練習方法は筆者なりに分かっているので、それならば自分も講師をやれそうだ、という自分の「潜在能力」に気づいたのです。彼自身が筆者にコーチングをしたとも言えます。
さて、このような事例があります。
テニスのレッスンプロが、あるときスキーのインストラクターをしている友人にテニスのコーチを依頼しました。すると、結果は予想以上のものだったのです。
スキーのインストラクターの手法を見てみましょう。
このスキーのインストラクターは、テニスの技術については知りません。ただ、このような行動を取ったのです*1。
彼はテニスの技術については知りませんから、教えるのではなく生徒たちにいろいろな質問をしました。たとえば、テニスのコーチは「ボールを見て」と言いますが、彼は「ボールを見て」とは言わずに、「ボールはどんな回転をしていますか?」と生徒に尋ねました。
<引用:伊藤守「図解 コーチングマネジメント」>
その結果、このようなことが起きました。
すると、本来見えない回転を見ようとするため、結果として、生徒はボールをよく見ることになったのです。
もちろんそれ以前も、生徒たちはボールを見ていたつもりです。でも、テニスコーチが要求しているボールの見方とは違うものでした。しかしテニスコーチに、自分が要求している見方と生徒の見方の差を埋める技術がないため、あるいは、そのことにすら気づいていないために、ただ、「ボールを見て」という教え方になってしまうわけです。
<引用:伊藤守「図解 コーチングマネジメント」>
生徒のなかには、このような変化が生まれています。
(出所:伊藤守「図解 コーチングマネジメント」)
この点では、スキーのインストラクターのほうが、得意とするジャンルを超えて「コーチング」には向いていた、というわけです。
そこに「畑違い」という概念は存在しないのです。
よく考えれば、例えばプロ野球の世界では、看板選手・スター選手ばかりが必ずしも引退後にコーチになっているというわけではありません。メジャーリーグまで上り詰めたからと言って、その全員がコーチになっているわけでもありません。
契約条件などもあるのでしょうが、しかし何らかのセンスを備えた「コーチングに向いている人」が球団に残ることは珍しくないのです。
そのように考えてみれば、筆者のサックス講師へのお誘いは受け入れやすいものになりました。同時に、今後磨くべきは「質問力」であるということがハッキリしたため、すこし心が楽になりました。
そして思い出したのが、筆者の師匠にあたる人がレッスン中に発した言葉です。
「いい音を出せるようになりたい、っていうけど、『いい音』って何?誰のどのアルバムのどの曲が『いい音』だと思っているの?」
これは、筆者には非常に刺さった問いかけです。自分に生徒ができたら、丸ごと伝えたいと思うほどの言葉です。かつ、根源的な問いです。
相手が漠然と思っていることを具体化する。
超一流のプレイヤーでなくともできることですし、実際、どんな講師にも、自分を上回る生徒さんはいることでしょう。日本一、世界一でなくてもできることなのです。
筆者のように、経歴が浅くてもできることです。
これが、コーチングの本質だと筆者は考えています。